愛津学園とは? 佐学派と討学派 新選組とは? 隊士l構成 局中法度 主人公について
徒沙班とは? 徒沙謹能党とは? 超秀班とは? 歴史上の新選組とは?

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新選組とは 佐幕派と討幕派 主な隊士構成 局中法度 主な事件


新選組とは
 史実上の新選組は、江戸時代後期に京都の治安維持を目的に活動した。
 後には旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った組織である。当時の会津藩主「松平容保(まつだい
 ら かたもり)」の配下に置かれ、池田屋事件などで京都に潜伏する過激派尊皇攘夷(そんのうじょ
 うい=天皇を尊び外国を撃退しなければ日本の未来はないという 考え方)論者を取り締まった。
 隊の規律維持のために用いられた局中法度で隊士を粛清した事、「誠」の隊旗や浅葱色の
 ダンダラ羽織でも知られる。
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●佐幕派(さばくは)と討幕派(とうばくは)
幕末によく使われた言葉であり、「佐幕」は「幕府を補佐する」という意味で、新選組などがそれに当たる。
対して「討幕」は「幕府を討つ」という意味で、幕末の土佐藩(とさはん) 長州藩(ちょうしゅうはん)
薩摩藩(さつまはん)が挙げられる。
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主な隊士構成 局中法度
局長
 近藤勇

副長
 土方歳三

組長・組頭
 一番隊組長:沖田総司
 二番隊組長:永倉新八
 三番隊組長:斎藤一
 四番隊組長:松原忠司
 五番隊組長:武田観柳斎
 六番隊組長:井上源三郎
 七番隊組長:谷三十郎
 八番隊組長:藤堂平助
 九番隊組長:鈴木三樹三郎
 十番隊組長:原田左之助
局中法度とは新選組の規律維持のために定められた隊内の条例。この禁令に背いたときは切腹を申し付けられた。

一、士道ニ背キ間敷事(士道に背かないこと)
一、局ヲ脱スルヲ不許(局を脱しないこと)
一、勝手ニ金策致不可(勝手に金策をしないこと)
一、勝手ニ訴訟取扱不可(勝手に訴訟を扱わないこと)
一、私ノ闘争ヲ不許(私闘をしないこと)
右条々相背候者切腹申付ベク候也


有罪か無罪かは、ほぼ局長や副長の一存に委ねられていた。実際にこの局中法度で粛清された隊士は41名だったと言われている。
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●主な事件
八月十八日の政変

 文久3年8月
 薩摩藩・会津藩などの同盟派閥が尊皇攘夷派の長州藩などを京都における政権から追放したクー
 デター。
池田屋事件

 元治元年6月5日
 当時の京都は政局の中心となっており、尊皇攘夷や勤皇などの思想をもつ浪士が潜伏して活動して
 いた。長州藩、土佐藩などの尊皇攘夷派が京都御所を襲撃するという計画の実行・中止の会合が
 池田屋2階で行われている事を突き止めた新選組:近藤・土方、他隊士32名が襲撃をした。
 当初、池田屋に斬りこんだのは 近藤・沖田・永倉・藤堂4名のみで、沖田は肺結核のため・藤堂は
 汗で鉢金がずれ、その隙に額を斬られ戦線離脱。一時 近藤・永倉の二人のみでの戦闘になるが、
 駆けつけた土方たちによって勝利を収めた事により京都御所襲撃は未然に防がれた。
禁門の変

 元治元年7月19日
 この年に入ってから長州陣営では、天皇上洛が論じられていた。(桂小五郎・高杉晋作は反対派で
 あった。) 議論最中に池田屋事件による藩士の殺害の報がもたらされる。これに激怒した長州藩
 が挙兵。
 禁門(正確には「京都蛤御門」)で 長州部隊と会津・桑名・薩摩藩の部隊と交戦。長州部隊は壊滅。
 この禁門の変において、長州藩は朝敵とされて「第一次長州征伐」が行われる。
鳥羽・伏見の戦い

 慶応4年1月3日
 戊辰戦争の緒戦にあたる戦い。尊皇攘夷の新政府軍と前将軍・徳川慶喜率いる旧幕府軍が
 鳥羽・伏見で開戦。
 土方率いる新選組隊・他、旧幕府幕府軍は新政府軍の小銃火力の前に敗れる。
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※これは史実のほんの一部です。もっと詳しく知りたい方はググると幸せになれるかもしれません。

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